月
近所の買い物帰り、目の前を雀ほどの大きさの鳥が過る。動きが雀にしては素早い。何かしらと目で追った先のフェンスに、尉鶲の雌が一羽、こちらをちらちら気にするような素振りで尾を振っていた。その日を境に朝の気が少し冷んやりとして、初鵙を聞く。それから四十雀が庭に戻ってきて、少し濁りがちな鈴を振る。一日だけ目白のつがいも寄って来て、一時お喋りしていった。「小鳥来る」の季語は、毎年こうして意識される。
十月は子供の学校のPTAコーラスに参加する。季節外れの七夕コーラスと称して年に一度限り、月末の文化祭の舞台に出演している。四、五回の俄か練習でなんとか形にするのだから、程度のほどは知れているのだけれど、我々は大真面目である。私のように音楽の素養のない者から、譜面を見れば初めての曲でも即歌える人まで、玉石混交のメンバーがお互い助け合っての楽しい素人集団である。
指導してくださる先生の言葉が興味深い。一番最初に教えていただいたコーラスの心構えは「女優になったつもりで」というもの。普段着の声でなくて、合唱用の声を出すには、舞台衣装を身にまとった女優さんになったつもりで演技するようにということだ。先ず姿勢が変わる。表情、目の見開き方が変わる。そうすると、身体の変化、表情筋の変化が自ずと声の質、響き方に影響して、確かにちょっと玄人っぽい発声ができる。僅かの一言アドバイスが、上手く基本の極意を示してくれる。
その他、発声練習のときの表現が詩的である。
「目の前に掌を出して、その上に軽い軽い綿の固まりを置いて、その綿の固まりをふーっと、吹いて飛ばしてみましょう。重いものを吹こうとしては駄目ですよ。咽に力が入り過ぎるから。綿の固まりが真っ直ぐでなくて、ふわりとまわるく放物線を描いて、正面の窓ガラスも抜けていくつもりで、自分の頭の上の方から声を出しましょう。」
不思議なもので、こうしてイメージして発声すると、それなりに声が出始める。
言葉は便利ではある。しかし、実際には私たちの世界は、言葉一つではうまいこと表現できない物の方が多いような気がする。本当に言いたいことに一対一対応する、どんぴしゃりな言葉はそうそうはないのである。それゆえに、詩が生れる余地があるのじゃないかしら。この言葉の不便さゆえに俳句を楽しむことができるのではと思う。あれこれの言葉を組み合わせ、そこここの単語を援用し、五七五を組み立てるのに苦労するのは当然のことなのだろう。
十月は気候の変動が大きい。朝夕の気温の差が激しくなるのだ。コーラス練習の始まったばかりの頃、練習はいつも午後七時過ぎ、まだ夏の余韻が残っていた。今夏はいつまでも暑かったゆえになおさらだ。窓ガラスを蛾が打つ。練習が終って校庭へ出ると、ひらひらと頭上を蝙蝠が飛ぶ。半袖のシャツ一枚で十分な夜。歌が仕上がって、後は度胸を決めて本番を待つばかりになった頃、不意に寒さがやって来た。同時に、コーラス隊を立ち上げて、ずっと牽引されて来られたお母さんが突然他界された。発表会は葬儀の翌日の晩であったが、残されたご家族全員で聞きにいらした。
それからほどなくして、十三夜の後の月の宵。
成色満月木の根元よりこぼれ出づ 星眠
この成色は造語。月の色は日ごとに変わっていき、それは次第に月が色を成していっているようだと言う。車椅子に座った位置から眺めると、梢に掛かる満月は、ずっと下方の根元あたりにこぼれ輝いていたそうだ。言葉の箱を隈無く探して、なお、いささかの不自由。それでも、それぞれに、その時々に尽くす喜び。人は一人いつでも、その時、どのような瞬間においても、望の月のように、本来完結した一個の存在という思い。
三浦亜紀子